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 毎年、3月になるとできるだけ参加しているイベントがある。それは「愛をつなごう文化祭」という2011年以降、東日本大震災を機にはじまったチャリティーイベントである。主催は柚季純さんという声楽家の方で当時いきつけの呑みやにチャリティーイベントで歌いに来たのを機に知り合いとなり、その流れでイベントにも参加させてもらっている。

 このイベント、3月と8月の年に2回のイベントとなっているのだけれど、まずミュージシャンたちのライブが主軸になっている。ボクは絵描きなので、毎回とくに貢献するでもなく隅っこでライブペイントをしたり、会場の子どもたちと工作を楽しんだりしている。とはいえ、だんだんと仲良くなってくれる人たちもいるもので、ミュージシャンのカギボスの二人はとくに仲良くしてくれている。今度CDのジャケットのデザインもさせてもらう予定で、音楽へのあこがれが強いボクにとってはとてもうれしいことです。

 東日本大震災から6年という月日が過ぎた。日常生活に集中していると当時のこともだんだんと忘れていってしまうし、今も復興中の被災地と、そこから懸命に生きている人々のことも想像が難しくなっていってしまう。ボクの場合はこのイベントにできるかぎり参加することで、ほんのわずかだけど、復興に携わることができているのかも知れないという救いになっている。
 2011年3月11日からしばらくは、美術作家たちも発表の自粛が行われたり、しばらくすると東京電力への強い反発や地震や被災地をテーマにした作品をつくる作家たちがあふれた。時代の雰囲気みたいなものに敏感に察知し、表現していくのがアーティストの一つの仕事のあり方でだし、これは正しいことなのかもしれなけれど、ボクはそれはやらなかった。自粛もしなかったし、震災をテーマにした作品もつくらなかった。変化がなかったとは言わないけれど、とにかく周囲の流れにはのらなかった。
 別に批判するつもりは全然ないけれど、当時声高に震災をテーマにしてアートをうたっていたアーティストたちは今全然違うテーマで仕事をしたりしている。ほとんど忘れてしまった人もいるだろう。忘れないでまだアートをつくっている人もいる。でも、なんとなく冷遇されてしまったりするケースもある。

 6年という月日を経て、こんなことを思ったりもする。

 今年のイベントは盛況だったかというと、よくわからないが、とても有意義だったと思う。打ち上げは夜の25時過ぎまで続き、ボクは家路まで2H以上、一人とぼととぼと歩いて帰った。震災のときも帰宅難民になり歩いていたっけ。あのときはたくさんの人たちと行列をなし、歩いていた。思えば変な対比である。まぁ、ほろ酔いでそんなことを考えたりした。



            堀江和真

 
 

環境と制作

2017年03月08日
 3月……最近はなんとなく寒さが和らいできたような気がする。とはいえ、やっぱり寒いものは寒いのだけれど、うっかり手袋やなんかを忘れてもどうにか我慢できる。

 さて先日できあがった作品をFBでアップしたら、画風が変わったねなどのコメントをいただいた。その方に作品を直接みていただいたのは一度きりなのだけれど、そのころはもう4年ほど前で、当時ボールペンなどを使った細かい線描に色鉛筆などを使って彩色するような作品をメインにしていた。そのころと比べると、なるほどずいぶん変わったなぁと思う。

 なんでだろう?としばらく考えていたけれど、環境かなぁと一人ぼんやりと思った次第です。もちろん、美術のことを知る過程で当時の表現方法に限界を感じていたというのもある。ちょっと飽きてきていたというのも否めない。けれど環境が変わったというのが一番なのかもしれないと思った。
 
 当時、ボクは会社員だった。大体週に5日は都内に通い、出勤日は一日10時間は働き、通勤には往復で2時間半は使っていたから、ここから睡眠時間を引いたら、自由な時間は限られていた。そこで、制作時間を捻出しようとすると、お昼休みとか、あとは休みの日とか、あとは切れ切れの時間になんとか滑り込ませるくらいしかなかった。それで不自由だと思ったことはなかったけれど、表現の手段は限られていた。かばんに入るくらいのスケッチブックとボールペン、色鉛筆は使いそうな色をその都度選んで持ち歩いた。すなわちこれが、ボクの美術の道具だった。制作場所は会社の休憩室とかカフェとか電車の中とかで、とにかく毎日描けるだけ描いた。会社員のころの最後の2年ほどはスタジオも借りていたので、絵の具なども使うようになったけれど、やっぱりメインはこのどこでも描けるスタイルだった。今考えても、この制作方法は当時のボクにはぴったりだったと思う。とにかく描けることがうれしかった。そして、そこに救いをもとめていたような気がする。

 現在ボクは早朝のパン屋の仕事を週に3、4回こなし、子ども教室は週に4回、開校して生計を立てている。休みは週に一回も取れないこともよくあるけれど、それでも、スタジオには毎日行ける環境にあるし、絵の具も使えれば、かばんに入らないような大きさのパネルにも自由に絵が描ける。誰の目もはばからず、体をつかった自由な線を引くことができるし、スペースが絵の具で汚れることなども気にせず制作に集中できる。これで作品が変わらないほうがどうかしているというものだ。

 環境が変われば作品が変わるにはすごく健全だなって思う。

 いいとか悪いとかっていうのはわからない。けれど、変化を受け入れていくことはとても大切だと思う。

 余談だけれど、美大生の方が卒業後、制作ができなくなってしまうという話をよく聞く。美大というところは美術の制作だけに集中できる環境が整っている。時間もたっぷりあるから、極端に言えば朝から晩まで美術のことを考え、制作に没頭できるし、それが良いとされる場所である。社会に出ると自分のお金でスペースでも借りない限り、そんな環境はなかなか手に入らない。しかも普通は仕事をして生活費を捻出しなくてはならない。たっぷりとあった制作の時間は一日数時間が限界になってくる。材料費だって自分の稼いだお金から出費をひいたあとでは湯水のようには使えないだろう。制作の手が止まるというのも頷ける。

 でも……とボクは思う。そのときに合った制作をすればいいんじゃないかな~と。
 大学に在学していたころと同じような作品をつくるのは無理というものだろう。力業で続ける人もいるだろう。それは素晴らしいけれど、無理しないで、できる表現をすればいいんじゃないかなぁなんて思う。

 ボクは美大に行っていないし、だれかに教わったりっていうのもあまりないから、そういったものにあこがれが強い。でも、今の制作の感覚と引き換えに教育を受けることができたとしても、それはしないだろうと思う。

 なーんて、ちょっと散歩しながら思ったので書いておく。

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                     堀江和真