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おばさんとボク

2020年03月30日
 堀江和真です。

 珍しく連続の投稿です。別に暇ってわけではないんだけどね。

 というわりには、またどうでもいい話を書くボク。

 先日、図書館に行った。かりていた本がちょっと期限をすぎていて、司書の方に注意されるの嫌だなぁなどと思って、のそのそと行ってみたのだが、この日は休館であった。新型コロナの影響で3月いっぱいは閉館なのだそうだ。まぁでも返却ポストは使えたので、ここにかりていた本を入れていけば司書の方に怒られることもないし、ここはラッキーだったかな?などと考えていた時である。

 妙な臭いがする。ナンプラーをもっと強烈にしたような感じの異臭である。なんだろう?と視線を左右してみると、そこに、そのおばさんはいた。駅ビルの中にあるボクが訪ねた図書館の前はちょっとした勉強などができるような大きな机やそれに伴う椅子がいくつか設置されていて、その一つに腰をかけて、あらぬ方向を眺めていた。大体50歳から60歳くらいであろうか?こぎれいというほどではないが、ホームレスの方って感じもしない。でも、こんな異臭を漂わせているってことは、やっぱりホームレスなのかなぁ?などといぶかる。しばらくぼんやり眺めていて気付いたことがある。片足がおろらくはだしであるということ。そして、その足は化膿しているのか真っ赤になっている。どうやら異臭の原因はこれであろう。ボクはけっこう気になった物や人を直視してしまう癖がある。この時も直視してしまっておばさんの視線とかちあってしまった。おばさんの視線がボクに何を語っていたのかはいまだにわからない。お金でも渡せばよかったのか?大丈夫ですか?と声をかけるべきなのか?と迷った。

 しかし、一番驚きだったのは、その周囲や隣で受験勉強?に勤しむ学生さんたちである。皆、平然と勉強をしている。何も感じないのだろうか?とても奇妙なものをみたような気がした。

 ボクは動揺していたのだろう。借りていた本と一緒に、自分の部屋から持ってきていた本まで、一緒にポストに入れてしまった(あーぁ。)



堀江和真

 こんにちは。堀江和真です。いやはや、新型コロナ、すごい勢いである。ボク自身はいつも通りの生活である。今のところは……。そのうち、変化するかもしれない。そうなったら、どうなるのか?と考えなくもない。

 でも、今日はそれについてはこれ以上は書かない。

 さて、今日は感性と理性について。

 最近、ソフィーの世界という本を読んでいる。全体で600ページほどの本だ。哲学について子どもでもわかりやすいようにと書かれた本で、20年以上前大ベストセラーになった本だ。当時もボクはこの本を読んだ。…最初の200ページくらい。正直なんのこっちゃって感じで、たいして興味も持てなかったし、途中で読むのをやめた。それから2回くらいチャレンジするも、結局読めなくてブックオフに売ってしまった。あれから、何年の月日が流れたのか?先月、またこの本を手にした。ブックオフで199円也。

 なぜ、手にしたのか?それは哲学を学ぶ必要性を感じたからだ。昨年の年末、1か月半くらい横浜のBankART stationでレジデンスをしていた。そこで出会った中国の作家やアメリカに留学経験のあるアーティスト、若手の建築家が皆、哲学に造詣を持っており、美術にはフィロソフィー(哲学)が不可欠であると語っていたからだ。恥ずかしながら、ボクはこの話題にはまったくついていけなかった。
 薄々は感じていたものの、やはり必要かなと考えたとき、最初に攻略しておくべきは、この何度も途中で読むのをやめてしまった哲学の入門書「ソフィーの世界」なのかな?と思った。

 そして、読み始めた。面白い。といってもまだ300ページまでしか読んでいないけれど、今回は最後まで読めそうだと思った。
 
 
 ちょっと話題は変わるが、ボクの最近制作をしているときの、一つのテーマは「感情や感覚を大切にしながら描く」である。今までは絵画の構造の説明だけをしていた。絵画とは行為と時間と物質が積み重なっているだけにすぎないという考え方を全面に押し出していた。
 これを言い換えてみると、感情的に描くときに働いているのが、感性であるならば、理詰めで作品を説明していく方法は理性となるのだと思う。
 美術は学問なのだから、不確かな感性について言及するのではなく、実際に起こっていることだけを簡潔に理性的に説明することがアーティストとして、誠実なのだとボクはちょっと前まで思っていた。でも、そんなに簡単に説明できてしまうアートなんてつまらないなと思うようにもなってきた。説明しようのない衝動のようなもの、それこそが他の学問にはない芸術表現の本質なのではないか?と考えるようにもなってきた。この対極のものごとは、どちらも大切だとボクは思っている。どちらでもない中途半端なポジションをキープするのが大切なのだと思う。

 しかし、これを人に説明しようとすると、なかなかうまく行かない。どっちやねん!とつっこみが入る。ボクはもじもじしながら、「いや、どっちかって言いたいわけじゃなくてね」などと言って相手をしらけさせる。うーむ。難しいものだなと考えてしまっている。

 話を哲学に戻そう。この感性と理性の議論は、古代ギリシャの時代からはじまっていた。そういう根源的な問題にぶちあたって苦しんでいたボクはなるほど、ゲーテに言わせれば「3000年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、闇の中にいよ。」に価する人間でだろう。ボクは現代アートをやっていますと、人にいいながら、古代から続く根源的な問いの基礎も知らず、ただ感覚だけで疑問視していたのだ。

 うーむ、本当に勉強不足である。でも、これで少し見えてきたものもある。

 哲学にはイデア(理想)という言葉がある。プラトンは理性によってのみイデアを見つけることができると説き、アリストテレスは感性と理性の両方を使ってしかイデアには到達できないと考えた。プラトンは数ある不確かなこの世の中のあらゆる生物はどれもまがい物で、一つの完璧な型(イデア)から生まれ出た失敗作が世の中にある生き物であると諭した。アリストテレスはイデアとは数ある今生きている生き物を感覚と数字をつかって観察し、このデータを反映し理想化したものをイデアと呼んだ。

 アーティストも似ている。この世の不確かな事柄を自分なりに捕まえて、なんとか説明をしようと試みる。正解というものはないのかもしれないが、正解を求める。絵を描きながらボクはひとつのイデアを求めているのだと思う。

 なーんて、40を前にしたオッサンであるところのボクは一人、思うのである。考えること、そして知ることは本当に楽しい。たとえ、誰もが消化してしまったような単純な問いであっても。



 堀江和真