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文化とアート

2016年03月04日
 ボクは、仕事で子どもたちに絵画や造形を教えています。先日は葛飾区高砂児童館にお邪魔してきたのですが、そこでは大きな紙を用意して子どもたち60人ほどで一斉に絵を描くというようなことをしたのですが、これがなかなかおもしろいことになって、楽しかった。
 その際に、書藝家の平野壮弦さんと、ターナー色彩の油屋さんを誘って臨んだんですが、このお二方の支援もあってワークショップは概ね、成功しました。

 今回書きたいのは、そのあとの飲み会で日本酒をちびちびやりながら、この二人と話したこと。
 美術は多様であって良いので、ここで良し悪しを語るつもりはないのですが、その時に出たことで興味を覚えたので、ちょっと書いてみようと思う。
 ボクの中の美術は、近年は世界とつながっていくことがけっこう喜びだった。それは今もそうです。先人たちが気づいてきた美術の歴史があって、そこにつながってボクが制作をしている。それは自分でも思ってなくても絶対なにかの影響を受けている。そこは壮弦さんも一緒で、書の先人たちの教えの影響を受けている。
 でも、そこからがちょっと違う。ボクはボクの美術をやる。でもそれが結果として美術の世界とつながっていること。何かを受け継いで、自分の中で進化させているという感覚を持つ。それは進化ですらないことが多いけれど、本人は大まじめにやってる(笑)。そして、それをみんなにも伝えたいと思う。こういった事柄を踏まえたうえで、ようやく自分の自由な絵画を描いていけると思っている。つまりは制約つきの自由ということになる。自分で決めたルールの中で制作するというような感じなのかな?
 壮弦さんは、ちょっと違う。そこから唯一無二のものを生み出すという考え方だ。それをアートと呼び、ボクのように世界とつながることは文化だというようなことを言っていた。書の世界はこの傾向がとても強くて、先人の書をどれだけ完璧にマスターできるかを競うような世界に興味が持てないのだと氏はいう。
 これは前衛でありつづけるというようなことと、そうではないものの差のことなのかなぁとも思うのだけれど、とにかく内容がとてもおもしろかったので、ここに記しておく。繰り返し、思い出し、自分は今、どっち側なんだろう?と考えたりしそうなので(笑)



                       堀江和真